縁起

元興寺縁起
養老二年(718)、当地に創建された元興寺は、飛鳥の地に営まれていた法興寺(飛鳥寺)を前身とする寺院です。
法興寺は、蘇我馬子の発願により推古天皇四年(596)に創建されました。日本で最初の本格的伽藍を備え、同様に日本で初めて組織的かつ公的に仏教普及に務めた「仏教はじまり」の寺院でした。都が平城京に遷された際に法興寺はこの地へ移建され、寺号も元興寺と改められました。
伽藍は関連施設を含め、東西三町・南北五町に及ぶ広大な寺域を有し、平城京内でも有数の大伽藍として栄え、南都七大寺の一つに数えられておりました。
しかし、時代の推移とともに律令制が崩れ、国家による保護が失われるにしたがって寺勢は次第に衰退し、やがて五重大塔と観音堂を伝える当寺と、極楽坊・小塔院の三寺に分立しました。
その後、長い歳月を経るなかで、これらの寺院を中心に奈良町が形づくられていきました。
中世以降の華厳宗元興寺
中世から江戸時代にかけては、当寺と長谷寺の十一面観音を併せて巡礼することが流行し、当寺は南都における観音信仰の中心地として大いに栄えました。
また、『日本霊異記』に記される元興寺と道場法師の説話は、八雷神面による厄除け信仰へと発展し、多くの人びとの信仰を集めました。
江戸時代には、五重大塔は元興寺を代表する名所であるとともに、奈良町観光を象徴する存在でもありました。
しかし、安政六年(1859)に近隣からの失火により五重大塔は観音堂とともに焼失し、観音堂の十一面観音も惜しくも失われてしまいました。
その一方で、薬師如来立像(国宝)や八雷神面などの尊像・什宝は、人々の手によって救い出され、今日にその尊い姿を伝えています。
昭和・令和の復興
五重大塔と観音堂の焼失後、当寺は長らく無住状態が続きましたが、昭和の初めに、東大寺より命を受けた水野圭真住職により寺域の整備と本堂の再建がなされ寺院としての営みを再開しました。
しかしながら、圭真住職の入定後、活動は徐々に衰える事になります。その時以来主要な寺宝であった、薬師如来立像(国宝)十一面観音(重文)などが奈良博物館に寄託されました。
令和五年(2023)に再び無住となりましたが、圭真住職と血縁関係にある池田圭誠が住職となり再興に着手しました。
【 池田 圭誠住職 】
平成19年より東大寺に勤務、修二会参籠。
平成28年都祁金龍寺住職就任。
これまで15回以上の修二会練行衆を務める。
令和6年華厳宗元興寺住職に兼務就任、有志とともに寺業の復興に着手。